食事を始める際の挨拶・礼儀として、日本人全員が口ずさむ、あるいは口ずさむべきだと思っているこの言葉「いただきます」。今回はこれについて考えてみたいと思います。

この「いただきます」ですが、どんな意識・意図をもって発しているでしょうか?

そうです。作物や料理を作ってくれた人々への感謝、食材を買うお金を稼いでくれたご家族への感謝、恵みを頂けることに対する感謝、大きくみれば自分が生きていられることへの感謝、といったところですね。これに異論を唱える方はいないと思います。

 

さて、ここからが今回の本題。その「いただきます」によって、どれだけ真剣に感謝できているでしょうか?毎食、本当に、本当に、心から感謝できていると言える方はいらっしゃるでしょうか?
習慣やルールが中身(意味)を成していない、形骸化しているなら、いっそ無くしてしまうか、やるなら意味を込めてやるべきだと考えています。今回の私の主張はその後者で、意味を込めてやりましょう、というメッセージです。

 

私事になりますが、私は1年程前に、市街地を離れて夫婦で茨城の田舎暮らしを始めました。それによって感じた大きな変化のひとつは「食糧事情」です。近隣住民の多くは野菜畑をもち、多少なり自給自足をしていますし、さらには事あるごとにそれを積極的に近隣間でお裾分けします。その結果、我が家の収穫物と頂き物だけでほぼ食卓が埋まるようになりました。

以前の我が家=市街地に住む大半の方々は、食材はスーパーで購入されていると思います。さらにその買い出しを奥様に任せっきりのご家庭ならば、食材ひとつひとつについての事情は知り得ませんし、まして思い入れを持つことはそうそうありません。そもそもそんなに暇ではありませんよね。そういった生活環境ですと、「いただきます」の際に具体的に感謝を向けられるのは、調理してくれた奥様に対してくらいなもので、あとはせいぜい、漠然と食材に対して、そして食事にありつけることに対して一括りの感謝。これが精いっぱいの感謝の脳内イメージではないかと思います。

 

しかしここでの私たちの生活では、驚くべきことに、食卓に並ぶほぼすべての食材の「素性」を把握しているのです。食材ひとつひとつに意識を向け、想い出を語ることすら出来るのです。

成りも見てくれも悪いけど頑張って根を張ってくれたうちの畑の人参、味が濃い!小ぶりで虫食いできれいに丸まっていないけれど、鍋にしても溶けない力強く甘みのある我が家の白菜。近所の水場に自生しているクレソン。ご近所さんから頂いたコンニャクイモで家内が作った絶品こんにゃく。ご近所さんのお手伝いをしたお礼として頂いた地産のお米…。

誰がどこでどんな作り方・苦労をしてこの食材が出来上がっているのかが想像できるのです。当然それらをいただく際の感謝の辞「いただきます」は、それはもう社交辞令で済ませられるはずもありません。愛すべき食材一つ一つに意識を向け、食材の種子から実って人の手を介し、調理されてここに至る、すべての存在と経緯を噛みしめて、心の底から、本気で、丁寧に、感謝をする。気持ちが入らないならばそれを正してしっかりやりなおす。そんな「いただきます」を実践すると数分を要することもあります。

過去の自分の感謝がどれだけ少なかったか…。田舎暮らしをしてようやく、それに気づき、理解し、痛感しています。経済成長という名目での量産化、機械化、輸入政策によって、知らず知らずのうちに食への意識が希薄になってしまっていたことに気づかされました。本来は、これくらいの感謝は当然の(するべき)ことだと私は強く思うのです。感謝は、いくらでも、深く、深く、できるものなのです。上限はないのです

 

当然ながら食事中も、テレビやスマホを観ながらではなく、食事に意識を集中し、ゆっくり味わいながら頂く。残り汁、つけ汁もすべて残さず最後まで頂く。変な喩えですが、仮に私が(殺されて)食材の一部として食卓に並んでいるとしたら、決して、スマホを観ながら雑に流し込んで欲しくはありませんよね。収穫したのに食べずに捨てられたりしたら、発狂ものですよね。米粒や人参は感情表現こそできませんが、同じふうに感じている可能性はあると私は思います。

 

感謝は愛の波動です。深く感謝ができるということは、それだけ多くの「愛」を感じられている証拠でもありますし、「愛」を感じるセンサーの感度が上がったことをも示しています。それそのものが喜びであり、幸福感です。その気持ちは、受け取った感謝、愛を他の人へ循環させようという原動力になると私は信じています。

 

今日の総括。

感謝に上限はありません。

感謝をより深めていくことで、「愛」のセンサー感度が上がり、確実に幸福感があがります。

僅かな一歩に見えるかもしれませんが、毎日意識すれば確実にマインドは変化し、自身の霊性の向上をもたらします。

全員がそれを意識すれば、世界中が愛の循環で包まれるに違いありません。

何気なくやってきた毎日の「いただきます」を、どうせやるなら「全集中」でやってみませんか?