頭でわかっているのに 行動できないことってありますよね。「頭ではわかっているけど、できない」。色々事情はあるのでしょうが、自分自身に対する言い訳、時には家族や上司に言ってしまうことも。往々にして「言い訳」としてついでてしまうワード、少なくともネガティブワードといえるでしょう。皆さんは最近これを言ってしまった記憶に心当たりはあるでしょうか?

私が思うに、これには個人差が大きくあり、たまにこれを多発する人がいます。そこには思考の癖、考え方に課題がありそうです。今回はここを紐解いてみたいと思います。

 

まずは、できない理由を分類してみましょう。(といっても、分類が今回のメインテーマではないので、厳密な分類は行動心理学の先生等にお任せするとして、今回は私の思いつきレベルの分類でご容赦ください。)

●理解が浅い、やり方が理解できていないからできない

 読めるけど書けない漢字、
 逆上がりのコツは読んで知っているが、その通りに身体を動かせない

●必要性・価値・メリットが分かっていないから本気になれない。

 早めに治療したほうがよい虫歯を長期放置する、
 実は、できないのではなく、やろうとしない

●不安・恐怖心、失敗が怖い

 手術したら完治するのに先延ばしにしてしまう、
 バンジーで脚がすくんで飛び降りられない、
 過去に失敗したから、また失敗するかもしれない、
 やったことがないから、失敗するかもしれない

●欲求(物欲、食欲、快楽、睡眠欲など)に負けてしまう

 ダイエットが続かない、
 家計が苦しいのに節約ができない、
 健康上の問題がでているのにたばこがやめられない、
 試験直前なのに勉強せずゲームをしてしまった

●やる気がない、気力がでない

 

などなど。色々あるように見えます。が、結局これらの原因…つまり克服のために見直すべきポイントは2点に集約されると私は考えています。一つめのポイントは、

①「深く理解すること」

単純な話で恐縮ですが、「理解が全然足りていないのに理解したつもりになってしまう」「理解が足りていないという認識がない」人というのは非常に多いです。偏見・決めつけはいけませんが、どうも勉強が苦手な(だった)人に多いと感じます。教本を読んだり人から聞いたりしたことだけで「理解した」と思ってしまう人。その内容が身についたかどうかの自己確認プロセスがない、あるいは弱いといえるのではないでしょうか。それから知識・理解についての認識として多くの方が勘違いされている点があるように思います。それは、

知識=情報、ではないこと。
理解すること=情報を所有すること、ではないこと。

辞書や百科事典は情報の塊であり、知識による成果物ではありますが、知識そのものではありません。人間のもつ高い知性により情報を吸収し身につけて、はじめて「知識」と呼べるものに昇華できるのです。この「情報の知識化」が「理解する」という行為に相当するわけですね。

情報は有形有限一定量のものですが、「理解する」という行為には「深度」というものがあります。見覚えがある程度、言葉を知っている程度から、知識として他人に教えられるレベル。さらには自身の考えをもち、本質を見据え、さらにその奥、未来をも創造できるレベルまで、無限に幅が存在します。

見覚えがあるだけで理解しているぞと言い切る人もいれば、専門家であってもまだまだ理解には及ばないと思う人。皆さんは考え方・姿勢としてどちらが理想的と思うでしょうか?私は言葉の定義には拘りませんが、理解が浅い人というのは、往々にして「理解した」と思っている人であり、理解の掘り下げという歩みをそこで止めてしまう人だと私は考えています。勿体ないことですね。是非、無限に続く理解への深淵な歩みを止めないでいただきたいと思います。次に、2つめのポイントは、

②「理性、魂で思考すること」

物事を十分に理解しているならば、自身の理性で見定めるだけです。感情をオフにして、腰を据えて、自身の理性あるいは魂に、以下のことを自問して答えを整理するのです。

何のためにやるのか。
誰のためにやるのか。
メリット、デメリットはなにか。
それはどのくらい重要なことか。
結局、やるか、やらないか。

感情をオフにするのは、感情からは決してこれらの答えを導くことができないからです。本能的欲求・感情が目標達成の障害となるかどうかは、自身が一番よく分かっていることだと思います。理性(至高の目標)vs本能のバトルをやろうとしているのです。これは動物には決してできないことであり、人間という高い理性を持ち合わせた存在だけが挑戦可能なバトルなのです。

勘違いのないよう補足しますが、これは善と悪の戦いというわけではありません。本能的欲求も身体を守ろうとする大切な機能を持っています。人間の心には、本能由来の欲求と、魂由来の理性とが共存しています。直近の生命維持に主眼を置いた本能に対して、理性は長い時間軸、人生を俯瞰して物事を捉えることができます。つまり、長いスパンの目標に向けた努力に関しては、本能の出番はないのです。理性を活性化し、本能を制御する必要があるわけです。その場を楽しく生きればいいという刹那的な考え方の人ならば本能に身を任せていて何の問題もありませんが、人生を有意義にしたいのなら欲求を抑えてでも理性優位にすることが必須条件なのです。

理性優位にしたいけどそれができないのだ!というかもしれませんが、強い口調で言わせてください。「これだけは苦しかろうが弱音を吐かず戦うしかないのだ!」と。どんな人間でも必ず内面で理性と本能の綱引きは行われています。この綱引きを放棄することが最も「楽」な選択ですが、綱を離すことはすなわち人生を放棄し、動物で留まることを意味しています。どちらを優先させるべきかは個人の自由ではありますが、ここは覚悟を決めるしかないと思いませんか。

今日の総括です。

「わかってるけどできない」をなくし、やるべきことに向き合うために、前に進むために、人生をより良くするために、上記2つのポイントについて自己チェックをしていただければと思います。少しずつでも理解を深めて目標に近づけるように歩んでいけるよう、心から応援したいと思います。