愛。ストレートに口にだすことは少ないですが、漠然と、最大級に大切と思っている、あるいは大切にすべきと思っているものですよね。今日はこれをテーマに考えを深めてみたいと思います。といっても、愛とはなにか?というと言葉の定義の議論になってしまいますので、そうではなくて、究極的に、理想として、最終目標として「目指すべき愛」「実践すべき愛」(勝手ながらこれらを「本物の愛」「純粋な愛」と呼びます)とは何だろう?について考えてみたいと思います。

「愛」といっても多種多様な形や対象がありますよね。

人に対する愛、例えば家族愛、兄弟愛、恋愛、自己愛、人類愛・・・
人以外に対する愛、例えば動物愛、自然愛、
あるいはモノへの愛、金銭愛、ゲーム愛・・・など。

大切におもう気持ちが存在すれば、すべて「愛」と呼べるのかもしれません。

 

至るところに偏在する愛ですが、これらすべてが、実践すべき、推奨すべき愛と言えるわけではありませんよね。実践すべき愛とそうでない愛、皆さんならどこで線引きをするでしょうか?

 

私の答えはシンプル、たったひとつの観点。
それは・・・

 

「利己性を伴うかどうか」

 

です。本物の愛と呼べるものとは、見返りを求めない、自分の利益を考えない、相手を選ばない、すわなち「利己性を伴わない愛」「他己愛」であると私は考えています。

逆に、言葉に「愛」が付いていたとしても、本物の愛とは呼びたくないし、最終目標とは思えないもの、それは、見返りを求めるもの、自分の利益のためのもの、自分の趣味趣向で相手を限定するもの、すなわち「利己性を伴う愛」「利己愛」です。
行動的には、親切、想いやり、愛情に見える行動、であったとしても、その行動の「一番の動機」が、相手を大切に思う気持ちではなく、自分の私利私欲のためだったとしたら、その愛は本物と言えるでしょうか。愛というのはモノではなく、“感情”であり“心のさま”です。相手への思いが「ついで」であったり、「二番目、三番目の動機」であるなら、それは本物の愛とはいえないと私は考えます。ちなみに、私利私欲というのはモノや金銭とは限りません。名声やプライド、体裁などを動機とした行動も、利己愛といえるでしょう。

 

自分の私利私欲のための行動を「本物の愛」とは呼べない、という点にはほぼ全員から賛同を頂けるだろうと思います。では、自分の「家族に向けた愛」(親子や兄弟、親族など)はどうでしょう?大切な愛には違いませんが、広義で捉えれば自分の家族も自分の一部といえますから、利己的要素を含む愛ということになり、究極の愛とは私は考えません。家庭という小さな世界は、いわば愛の訓練場です。子供は親から一方的に愛を与えられ、無償の愛というものを学ぶ。やがて少しずつ親にも愛を返せるようになり、今度は友達や兄弟ができ、愛の交換を覚えていく。親になれば今度は子供に無償の愛を与える。家庭という訓練場で身につけた愛の授受は、その対象を広げて集団、社会、人類愛へと広がりをもつことで本来の意義を成就すると私は考えます。家庭内で留まってしまうなら、その家族愛は利己愛としか呼べないものとなってしまうでしょう。

 

「恋愛」はどうでしょう?現代においては、愛=恋愛と考える人さえいると思うくらい美化している面もありますから、これには異論が多いとは思いますが、私は、これを理想の愛には含めません。恋愛は、性愛であり、本能由来の感情が強く混じっているうえに、自身の趣味趣向が強烈に含まれます。結婚して家庭をつくるプロセスとしては必要なものではありますが、一過性のものですし、結婚したら要らなくなる愛っていうのもちょっと変ですよね。

 

次に「自己愛」はどうでしょう?これも家族愛と同様に大切なものではありますし、最低限必要なものではありますが、少なくとも目指すべきゴールではないと私は考えています。心を病む方の多く、あるいはすべては「愛」の欠乏が原因といってもよいと思います。愛を受けていない(こなかった)、誰からも愛を感じられない、という方には、自分を愛し、自分が自分を応援する、ということが一番の処方箋となります。しかし、それで終わってしまうなら、自分のことしか考えない人格が出来上がってしまうことになり、理想とは到底よべませんよね。愛を与え、愛を感じる訓練を自分以外にも広げていくことが必要なはずなのです。

 

また、利己性を完全に排除すると「相手を選ばない愛」ということになります。仲の良い人に親切にするのは簡単ですが、険悪な相手にも同じ愛情を注げるでしょうか。愛らしい子供の手助けと同じレベルで、寝たきりの障害者の手助けができるでしょうか。イエスのいう「敵をも愛せ」を実践できるでしょうか。私的には、これが一番実践のハードルが高いことだと思いますが、目指すものはこうでありたいと考えます。

 

利己主義、物質至上主義(エゴ)に支配されている現代では、自分の利益に繋がる行為は当たり前(悪くない)という風潮・思い込みがありますが、貧困、飢餓、争いの全てが利己性がぶつかり合った結果であることにどれだけの人が気づいているでしょうか。当然のようにエゴをぶつけあう今の世界のままでは、人類に未来はないと思うのです。愛と呼べるものは色々ありますが、人類の目指すべき本物の愛、究極の愛とは「他己愛」であると私は信じています。目標を正しく見定めることは大切です。純粋な他己愛だけを実践するのは並大抵なことではありません。家族愛も自己愛も必要なものではありますが、私たちの魂が追い求める最終目標はどこまでも「他己愛」にあり、実践するなら本物の愛に寄せていく努力をしたいと、日々強く思うのです。

 

※なお、この記事は私自身の考え方を示したものですが、同時に「スピリチュアリズム」の考え方とも一致しているものですので、興味を持たれた方はそちらのサイトも是非ご覧ください。